本学の実質的創設者である藤村トヨ先生は、日本の女子体育指導に多大な功績を残し、本学園の礎を築かれました。
その内容は、「藤村学園七十年の歩み」「藤村学園八十年のあゆみ」「藤村学園100年のあゆみ」周年行事の記念誌の中で詳しく紹介されています。本学図書館には、関連書籍や学園資料など蒐集されたものを貴重資料として収蔵しています。その後、卒業生にお願いをして学園関係の資料、写真、ネガなども含めて数多く提供され、私たちが閲覧できる資料として保管されています。
藤村トヨ先生の写真は、貴重資料(データベース)を閲覧していて見つけたものです。記念誌に記された当時の様子を用いながらご紹介いたします。
晩年の藤村トヨ先生 吉祥寺にて
以前、この画像のカラー化を試みた際に、周囲の植物は明るい緑と黄色に輝き藤村トヨ先生の表情も大変顔色が良く、明るく暖かな陽ざしが感じ取れました。アーカイブのリストを見ると昭和とありますので、そっと微笑む穏やかな表情を見ると晩年であろうと思われます。女子体育の領域を切り拓いて50余年が経ち、その間の激動を振り返りほっとされているような、そんな雰囲気が見てとれます。
藤村学園100年のあゆみ(2002)を読むと、藤村トヨ先生の思想・教育観・業績が、私立東京女子体操音楽学校時代【草創期】〜東京女子体育専門学校時代【激動期】にまとめられています。この写真が撮影された藤村トヨ先生の晩年は、東京女子体育短期大学(吉祥寺)が設置されて、以降1961年までの10余年を【確立期】として位置付けています。
20歳ころの藤村トヨ先生 香川県坂出市にて
この写真は、藤村トヨ先生二十歳の頃で、香川県で撮影されています。
「藤村学園100年のあゆみ」では当時の様子を表して「明治28年4月、19歳のトヨは郡長の推薦で香川県師範学校に入学するが、1年で病気退学となる」さらに、「明治32年、23歳のトヨはやや健康を回復して女子高等師範学校本科理科に入学する。〜 中略 〜 トヨは明治34年4月10日、またも修学2か年にして病気退学を命じられる。」と紹介しています。このころの藤村トヨ先生は、繰り返し体調を崩されて静養に専念しています。香川県に帰京ののち、3度目の小学校勤務を得て体育指導に深く関わり、ご自身も健康になるという幸運に恵まれます。
「綾歌郡各小学校生徒大運動会が催されることになった。国分高等小学校でもこれに出場するから、東京で習ってきた体操・遊戯を教えてほしいと言い出したのである。トヨは余命幾ばくもないわが身、役立つことなら引受けることにした。ところが、3か月にわたる練習をするうち、トヨの身体はみるみる健康になったのである。」藤村学園100年のあゆみより
このことが転機となって、多くの苦難に出会いながら女子体育を追究することになるのです。
2023.06.19
2024.04.24
2024.06.15