前列に薙刀を持って座っているのが、藤村トヨ先生です。3人が異なる薙刀の構えを作り、他の人は書籍と楽器を携えてポーズを作っています。明らかに「体操」「音楽」「遊戯」など視覚的に表現しようと試みていますよね。
明治35年頃ですから、香川県の国分小学校で教員を務め運動会に取り組みながら健康を取り戻し、体育の道に絞り込んだ時期でしょうか。
本学の実質的創設者である藤村トヨ先生は、日本の女子体育指導に多大な功績を残し、本学園の礎を築かれました。
その内容は、「藤村学園七十年の歩み」「藤村学園八十年のあゆみ」「藤村学園100年のあゆみ」周年行事の記念誌の中で詳しく紹介されています。本学図書館には、関連書籍や学園資料など蒐集されたものを貴重資料として収蔵しています。その後、卒業生にお願いをして学園関係の資料、写真、ネガなども含めて数多く提供され、私たちが閲覧できる資料として保管されています。
藤村トヨ先生の写真は、貴重資料(データベース)を閲覧していて見つけたものです。記念誌に記された当時の様子を用いながらご紹介いたします。
明治35年は、私立東京女子体操音楽学校が設立された1902年です。今から122年前に撮影された門扉の表札に、その名称を読み取ることができます。5月10日付で東京都知事から設立認可を受けて以降、学事予定でも現:創立記念日(旧:開校記念日)と定めています。創設について、藤村学園100年の歩みでは「わが国初の女子体育教師養成学校を創設したのである」と端的に記されており、当時の社会的情勢からは稀なことであったと資料をもとにその様子を伝えています。当初、認可に先駆けた広告などで、「東京体操学校・東京唱歌学校」と併記され、設置認可の時点では「私立東京女子体操学校」、同年10月「私立東京女子唱歌学校」の設立願を経て、学校名を「私立東京女子体操音楽学校」へ改名し学校名が定着します。
「女子」「体育」「音楽」が一体化した新しい学校として、学校種が変わる昭和19年までの間「音体」という通称で親しまれることとなります。
長らくご病気を患い、幾度か中途退学を重ねていた藤村トヨ先生ですが、「遊戯法講習会」で恩師の高橋忠次郎と高松で再会します。高橋忠次郎は、このとき私立東京女子体操音楽学校の設立者であり教師も務めていて、「音楽」と「体育」を融合した「遊戯」を探求していました。藤村トヨ先生が女子高等師範学校本科理科に入学した当時、高橋忠次郎が体育科で講師を務めていた旧交もあり、綾歌郡各小学校生徒大運動会に取り組んで健康が回復したこと、体育の道を決意して数学・理科の資料を焼いたこと、設立して間もない私立東京女子体操音楽学校のことなどが話し合われたであろうと、藤村学園100年のあゆみでは推論されています。
その後、藤村トヨ先生は勤務していた丸亀女学校を退職し、私立東京女子体操音楽学校に奉職します。
「私立東京女子体操学校の草創期は、転居の歴史であると言っても過言ではない。明治35年5月の設立から、大正11年4月の吉祥寺移転即ち再生期に至るわずか20年の間に、11回もの転居を繰り返したのであった。転居には、それぞれその都度理由があったであろうが、一貫した要因は資金の不足による経営難であった。十分な財源を持ち、充実した施設・設備を確立できさえすれば、こうした流転の苦難は経ずにすんだはずである。唯一の財源は授業料であった。」藤村学園100年のあゆみより
この後、明治41(1908)年に藤村トヨ先生が第4代校長となり学校とともに歩みますが、校長就任以降しばらくの間は苦難と向き合うことになります。
2023.06.19
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