本学の実質的創設者である藤村トヨ先生は、日本の女子体育指導に多大な功績を残し、本学園の礎を築かれました。
その内容は、「藤村学園七十年の歩み」「藤村学園八十年のあゆみ」「藤村学園100年のあゆみ」周年行事の記念誌の中で詳しく紹介されています。本学図書館には、関連書籍や学園資料など蒐集されたものを貴重資料として収蔵しています。その後、卒業生にお願いをして学園関係の資料、写真、ネガなども含めて数多く提供され、私たちが閲覧できる資料として保管されています。
藤村トヨ先生の写真は、貴重資料(データベース)を閲覧していて見つけたものです。記念誌に記された当時の様子を用いながらご紹介いたします。
前列中央よりに周囲の人よりも一段高く座って大きく見えるのが高橋忠次郎先生です。藤村トヨ先生が私立東京女子体操音楽学校に奉職する直前、恩師に再会したのも香川で行われた遊戯講習会でしたね。この講習会は日本遊戯調査会によるもので、日本童謡の調査、舞、踊、清楽、洋楽の稽古練習、遊戯書、体育書の収集など多岐に渡り、全国に居る多くの会員向けに講習会を実施していました。また、調査会が発行する遊戯雑誌は、当時多くの読者が求めたものだったといえるでしょう。
藤村学園100年のあゆみでは、学園草創期の創立者群像の中で高橋忠次郎をこのように紹介しています。
<草創期の本学にとって、藤村トヨと並ぶ重要人物と目されているのが高橋忠次郎である。忠次郎は日本遊戯調査会の中心人物であり、遊戯研究の第一人者であった。「音楽応用女子体操遊戯法」を著わし、音楽に合わせて体操遊戯をすることを主張していた。女高師と日本体育会体操学校の教師を兼ね、特に女子のための遊戯研究に力を注いでいた彼が、体操学校の設立に意欲を燃やしたのは当然であろう。>
この調査会は、教師が集まった研究会が始まりで、10年という歳月を掛けて研究発展されたグループです。
高橋忠次郎先生は、故郷の宮城県松島村で小学校に補助的教員として2年間勤めた後、東京に移り勉強します。私立東京体操伝習所と東京唱歌専門学校を卒業後、東京簿記精修学館で簿記、日本法律学校で法律を学び、小学体育科教員免許を取得し都内の小学校に勤務します。
その後、日本遊戯調査会の前身となる文学会を教員仲間と設立し、音楽と体操遊戯と女子を結びつけた新しい実践が発展して、我が国の女子体育を推進する原動力になったと、藤村学園100年のあゆみは説明しています。
高橋忠次郎先生は、明治39年の末にアメリカに渡りますが、その動機として、普通体操、スウェーデン式体操、兵式体操に揺れていた当時の体育教育の内容が説明されています。後年になって藤村トヨ先生がスウェーデン式体操を批判するところからも、恩師(普通体操)を継いだ学問的根拠が明確になっていきます。
<設立者兼校長の彼をあえて渡米に踏み切らせたものは何であったか。体操遊戯取調委員会が文部省に提出した報告の内容に、遊戯の時間を体操より少なく、スウェーデン式体操を認めるといった、忠次郎のかねての主張と相違する点のあったことが決心のきっかけとも言われている。>
高橋忠次郎先生は、大正2年アメリカの地で盲腸炎で他界されます。
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